星空夕子……いろいろ思うことの記録

思いの丈...というやつを

いつもと変わりなく

兄が亡くなったあとは、私はまたいつものように普通にするのがだけど、

やっぱりいつまでもうつ病でいるのも、うんざりしてくる。

 

穏やかに過ごすとか好きなことをするとか性格を変えるとか、どれも急にはって感じで。

穏やかに過ごすくらいは仕事休みにゴロゴロしてるからクリアできるかな。

 

私がいつだったかTwitter寛解報告したところ、それを見ていた友だちから

 

寛解と聞いて安心した。

自分のように4年も通院してほしくないですからね。

 

はたから見たら友だちに気づかわれてるように思うけど、うつ病の原因はそもそもこの友だちなので、何言ってんだよ!としか思えない。

 

まず寛解と聞いて安心したってなんだよ。

そこは謝るべきだろうに。

あくまでも自分が原因とは言いきれてない。

だから余計に苛立つしかなかった当時。

 

こういう時は仕事中でも思い出してしまい、頭の中が混乱してくるので、天を仰いで少し目を閉じて外部からの刺激を一時でも抑えている。

 

兄が亡くなった悲しみでもっと落ち込むのかなて思ったけど、父の怒鳴り散らしがいっぺんに吹っ飛んだわ。

私は何にも変わることはなく、普段どおりで行くことが1番なんだと思う。

 

うつ病だから何かやって気を紛らわすは、

なんとなく自分で追い詰めてるような。

焦りは禁物ってやつですよ。

葬式に行かなかったけれど

日曜日兄の葬式に行かなかったことの申しわけない気持ちは兄の奥さんにある。

本当は義理の妹として、こういう場を支えるべきなんだろうけど、それを放棄してしまった。

 

やっぱり父に怒鳴られたことの方が相当メンタルやられてる。

今まで寛解していたのに、これで再発してたら笑いにもならない。

 

もし葬式で顔を合わせていたら、息苦しさを感じて倒れそうだったかも。

 

今週は診察の日がある。

胸につかえるものがなかなか取れない。

変な圧迫感がある。

 

また安定剤が増えるのはねぇ。

もう断薬したいところだけど、そう思えることはやっぱりよくなりたいってこと。

 

兄も闘病生活苦しんだと思う。

失明で足を踏み外し、階段から落ちて1週間後に亡くなったけど、それが原因とも言えないらしいが。

 

兄の最期を見なかったことに悔やむんだろうか…これから。

 

もし父がもっと冷静で怒鳴られなければ、棺桶の中で眠る兄の顔を見られたのに。

 

 

今日は兄の葬式ですが…

気持ちの回復が遅れ、私は新幹線に乗って行くことができませんでした。

 

10時30分からですが、遠いので今から家を出ても間に合わない。

 

もう少し冷静で父もいてくれたら。

私がどういう段取りかの説明の前に怒鳴り散らすから、あれは本当に恐怖でしかない。

 

たった2人の兄妹の兄がなくなり、妹が葬式に来ないって最悪だと思う。

それは十分承知でいるけど、行かなきゃ!と思うより父に会うのが怖くてどうしても体が前に行けないんだからどうしようもない。

 

昨日は「明日は来てくれ!」の説得の電話はなく、今日もありませんでした。

一生後悔する、そう私には言ってたけど、

それは父自身の言葉だと私は受け止めている。怒鳴られてまた気持ちが病んでしまった私をどうしてくれるんだ!

 

私はまだまだ働かなくてはいけない。

兄を失って悲しみはもちろんある。

でも残された者はいつまでも悲しみに暮れるわけにも行かず、いつものように生活がある。

 

それを怒鳴られて、あとから、すまんかった

そう言われても、あっさり切り替えができない。

仕事に支障をきたさないかどうかはまだわからない。

 

葬式に行かなかったことは、申しわけないと思う。

 

もし、行っていたら、また何かの拍子で怒鳴られるのではないのか恐怖の方が強すぎた。

 

 

 

父に怒鳴られ、メンタルやられ

兄が亡くなって、憔悴しきってるというより、まわりが見えなくなってイライラし出した父がヘビーツイッタラーみたいでちょっと怖い。

 

電話でも急に怒鳴り出して、挙句の果てに、

「葬式なんか来ていらん!」

 

どうした!?悲しみより恐怖を感じる。

 

怒鳴られた翌日朝に、何度もしつこく父から電話がかかってきた。

取りたくないからほったらかしにしていても、何度もかけてくるので、

どうせ「すまんかった」の返しだろうにと予想しながら、とりあえずは出たら案の定でした。

 

たのむから葬式来てくれ!

来なかったら一生後悔する。

 

一生後悔も何も急に怒鳴られ、こっちも対応できなくてずっと息苦しさが続いていた。

 

あんなに怒鳴られて、「許してくれ」って言われ、

「いいよ、それぐらい」な~んてどんなに神対応なんだよ!

私にはそれができない。

 

葬式は明日。とてもじゃないが新幹線に乗っていけるメンタル回復していない。

 

 

 

 

 

ほとんど会うことはなかったけれど

兄妹と言っても仲がめちゃくちゃ悪かったし、

兄が出ていってから何回も会ってないよなぁ。

10回もないかもしれない。

 

なんで会えばいがみ合っていたんだろう…て不思議で仕方がない。

どれを取っても、どれを見ても、ちょっとのことでも腹が立つから、もう改善の余地がない。

 

というか、私自身別に改善しようとも微塵も思ったことがない。

たった2人の兄妹なんだから、仲よくしなさい!としょっちゅう言われていたから、

余計に別にどうでも…と思うようになっていった。

 

亡くなる4日前に病院で横たわる兄を見て、

ほとんど会うことはなかったけれど、

いつかは分かち合う時が来るのかな…

 

結局まともに話もできないまま、兄はこの世を去りました。

 

私のことはいつも気がかりでいてくれていたのは知っていたけど、素直に受け入れられなかった。

いなくなった今はどうかというと…

 

いなくなったというポカンと心に空くほどの虚無感はないけど、

もう2度と会うことはないのか…そう思うと生きていた時にもう少しいろいろ話せばお互いの食い違いな部分もわかっていただろうに。

 

それがもうできなくなってしまった。

さみしいものはこみ上げてくる。

 

 

 

 

雲の上のまた別の世界へ旅立つ、兄

昨日仕事行く途中に父から電話が入った。

 

死んでしまった。

もう…動かない。いくら呼んでも動かない。

 

電話の向こうの父は間違いなく泣き崩れていた。

 

そうかぁ…わかった。会社忌引で休む連絡を入れる。

私は会社最寄り駅に着いてから、少し駅前をウロウロとコンビニに入ったりしていたところでした。

 

実は仕事行く前、まだ家にいた早朝母から電話があった。

相変わらず何が言いたいのかよくわからなかったし、何年前のことを掘り下げてグダグダ言ってるから携帯をスピーカーONにして無視していました。

 

すると、その後ろでただならぬ慌ただしさを感じた。

 

病院から呼び出しが来た!

 

まさしく父の声が携帯から聞こえてきた。

もうダメなんだなぁ…すぐに兄がいる病院に行きたいが新幹線移動という離れているため、とても無理。

どういう状況なのか詳細を聞くまで私も早合点はやめようと思い、

いつもどおり仕事に向かいました。

 

土日新幹線に乗るつもりでいたので格安チケットを買おうとお金を用意していたりもしていた。

 

がんばって!という言葉はあまりかける言葉ではないとTVでもやっていた。

今まで散々病魔と闘いながら苦しんでいるのに、それでも私は兄にはまだまだがんばって生きてほしいとこの時は本当に「がんばって」

そう思いました。

 

そして、今まで何回もやり取りしていた父からの電話。

取る前一瞬だけ、ダメだった!?もしかして。

頭の中を過ぎりました。

 

父の言葉の「もう動かない、何回呼んでも動かない」

亡くなる瞬間最期を看取った父の率直な言葉に、

 

やっぱり動かないものなんだ。

本当に亡くなるというものは。

最期は土に帰る…そういうものなんだ。

親は人生散々好き勝手やり切って、満足なことだったんだろう、そう言っていたけど本心なんかではないはず。

まだまだ若いのにやり切った、というには早すぎる。

親なりの気持ちの整理の仕方なんだと私は思いました。

だから、それは違うとも言い返しませんでした。

 

実は昨日新幹線に乗りましたが、父から

こっちでのことはお兄ちゃんの奥さんとで段取りをするから、もう少し自宅で待機しといて。

ということで私はまた新幹線で家にトンボ帰りでお兄ちゃんとはまだ会っておらず。

仕事は休んでのんびりすることにしました。

 

2度目の日帰り新幹線移動で疲れたのか、

家に戻ったら私は爆睡しました。

 

Twitterやってた時、よく目にしたな。

死ねやら死にたいやらのTL。

何かあってのことだろうけど、そういう時は相当の覚悟でTLしてほしいね。

実際身近な人間の死を経験すると、そういう言葉を言い続ける人の単なる「止めてくれ」「そんなん言ってはダメよ」

まぁフォロワーにかまってちゃん注目浴びたいちゃん、ハイハイ本気ではないんでしょ。

それでまたいつものどこどこ食べに行った!おいしかった!と写真載せたりね。

イヤって言うほどそういうの見てきた。

 

Twitterをしていたらそんな冷めた目で眺めていたと思う。

 

残された奥さんが不憫でならない。

お疲れさま…何度も私は言いました。

とても優秀なキャリアのある人で一線で活躍している。

そんな中でもいつも気丈で前向きに愚痴一つ言わなかったと父から聞いていた。

兄が病に倒れてから、奥さんのキャリアのこともあり、兄のことで退官なんてことだけはしてほしくないと思いました。

 

父の協力を得ながら、父もまた住んでる家を母に任す(母は1人になって気楽だとか相変わらず呑気な)

時々戻ってはまた兄の家に何日も泊まって看病。

私と父は関西在住だけど、同居していない。

亡くなった兄は関東に住んでいた。

 

奥さん、父、もう苦しむことはないね。

父もこれで関西に戻れるね。

 

お兄ちゃん…亡くなる4日前に会えてよかった。

闘病生活1年もなかったような。

それほどガンの進行は早すぎた。

 

病に人は無力なんだ、というより

最期と決め込んでいた時の兄の

 

なる時はなる。俺はそういうの逆らわず受け入れる。

だからと延命治療やらないとかではない。

やれるだけのことはやる。

それでダメならしゃーないやん。

 

私が仕事疲れたぁ面倒とか文句言ってることがちっぽけアホくさと思えてきた。

 

やっぱり健康でいることがいい。

私の場合は友だちの暴言が原因でうつ病睡眠障害にされたからな。

死ねやら言っておきながら、つらいとかもう知らん。

 

さぁ私は兄の分まで長々生きるような気もする。

先はまだまだどうなるかは、まずはうつ病睡眠障害を治すが先だわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久々に兄と会った…

6月24日土曜日朝、私は新幹線に乗りました。

とても複雑な心境でいた私は、まず最初に何を言えばいいのか、状況が想像できないだけにいろいろ頭の中をかけめぐって、新幹線はやっぱり速いなぁ~と車窓を眺めては涙が出る。

 

前日仕事から帰って、やれやれで座ってすぐ父から電話が入った。

とにかく疲れていたし、着信をほったらかそうかと思いましたが、出なかったらまたかけてくるし、とりあえず出るだけでいいわ~で出ました。

 

明日朝早く新幹線に乗ってこっちに来なさい!

 

何があったのか、仕事疲れでいながらもすぐに理解ができた。

しかし、疲労感がハンパないからまず起きられるかわからない。

それに今までのことを思うと、そんな急には。

 

いろいろあったことはわかる。それを承知で。

 

仕事休みで起きられなかったら、また7月入ってからでも。

 

それでは、もうもたない…

先生から今のうちに会わせてあげたい人を呼んであげて…

 

そうかぁ…もうそこまで。

起きられたら、行けるとかの保証はない。

とにかく眠いからそれで勘弁して欲しい。

そう私は答えながらも新幹線に乗ることを決めていた。

 

仕事休みの日は昼まで寝るのに24日は珍しく5時30分頃目が覚めた。

睡眠障害なので眠剤を飲んだにもかかわらずだったので、やっぱり何かある時は人は行動起こせるものなのかもな。

 

新幹線を下りて1度兄の家に行き、父と兄の奥さんに会いました。

兄の家に行くのは初めてだったので父が迎えに来てくれた。

 

兄の家から車に乗って病院に行きました。

約6年ぶりかな…その前は10年会っていなかった。

それだけ仲が悪かった。

会えば口げんかしていたし、大人になってもそれは変わらなかった。

会ったら「何しに来た!来ることない帰れ!」

そう来るだろうと思っていたのです。

 

しかし、6年ぶりに会った兄は私が知っている兄とは全然違う顔がふっくらしていた。

元々はガリガリにやせてる姿しか見たことないので、逆にそういう姿を見て、私はつらさがこみ上げてきた。

 

ガンに冒され、顔が浮腫んでいたのです。

 

ガンに冒されていることは私も知っていた。

投薬点滴しながらも仕事を続けていたというから大丈夫なんだと思っていた。

 

ガン細胞が視神経を圧迫し、3月末失明をしてから進行が早く、新薬投薬も最初は効いていたらしく、うっすら見えていたようです。

でもそれも一時的でまた見えなくなった。

梅雨入りしたあたりから、全然食べなくなり、フラフラと立ち上がって自身で歩いてつたいながらトイレに行こうとした時、階段から落ちて救急車で運ばれ、そのまま入院することになりました。

 

自分の家なのに何で間取りわからなかったとかになるのですが、目が見えないことから方向感覚を失ってしまっていた。

 

何こんなところ(病院)で寝てるの!

早く家に帰ろうよ!

 

兄にそう言っていたのは、兄の奥さんでした。

兄は、反応して「うん」そう言った。

まだ希望はある。希望はあるんだよ。

また見舞いに来るから。

 

私は帰りの新幹線の中で、車窓を眺めながら、

また涙を流していた。